本日のブログタイトル、妻の実家から先日発掘した『大安心』(尾関宗園さん)のサブタイトルからお借りしました。

どうしたら、何とかなるか

独生独死独来独去
生まれてくるときも一人、死んでいるときも一人。
一人で来て一人で去る。
その間に、人と人とのまじわりがある。
それが人間だ。
人間本来の姿だ。

養病
病気のとき静養することを指す。
病を相手に闘う-闘病ーではない。
病気を治すため静かに心身の意気がもどってくるのを待つ。
そこでふたたび、じょうずにコントロールできると信ずる度胸である。

不立文字
よりかからない、とどまらないという意味であって、経典や文字にすがりつき、頼っていたのでは、禅の教えや真髄はとてものことに会得できないということだ。

「悟るというのはいったいなんでしょうかね」
私は、よくこんな質問を受ける。
そのたびに私はこう答える。
「それは、差を取ることです」
差を取る。
つまり、すべてのことについて、差別をなくすことが「悟る」で、すべてを平等に理解できるような自分でなければ、ギスギスして自分の内らまで円満を欠く。

人生は、何度でもやり直すことができる。
やり直しがきかないというのは、今日の自分も明日の自分も、同じ自分だと考えるからだ。
今日は今日、精一杯に生きる。
明日のことなど、いま考える必要はない。
いま、この瞬間の可能性を生きればそれでいいのだ。

他人と息が合うというのは、心を同じくするということである。
心と心が一つになり、「さあ、いっしょにやろう」
という気持ちが、しぜんに湧いてくることである。
つまり意気がみなぎり、意気と意気がとけ合うのである。
生きるというのは、こういうことではないだろうか。

「本番というのは、力を入れるんじゃなく、力を抜くんだ」
と、つね日頃人には指導していながら、私にはまだまだどこかに焦りがあるのだろう。
ボケーっと抜けているときこそ、自然に備わったものが、自然に発揮されてくるのだ。

目の前の事実をどうとらえるかで、結果は大きく変わりますよね。